NHKネーミングバラエティ番組「日本人のおなまえ!」で、そのうちに取り上げるかな、と見てても、戦国時代から、一番、有名でレアな武将の名前である「徳川」のルーツが取り上げられることはなかった。まあ、Wikiで徳川氏を調べたら「徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字(かじ:良い字)を用いて徳川と称したことが始まり」とあり、通常は出身地の村の名前が多いのに、自分自身で捏造した名前とあり、さらに「得川氏の末裔を称した」と言う事から大元の得川を見ても本来は江川と書かれていて、タタラの親分(江頭)のようでもあったり…。
何か、不都合な真実があるのか、と調べ始めたら、トンデモない情報が飛び込んできた!
そして、何と現代の徳川家を代表する若手リーダーらは、その陶工の親善大使に指名されたのだ!
(2019年4月)
秀吉は千将軍と釜山で戦ったが、その千家は千利休を生み出した天皇部落!


明治維新以来、李氏朝鮮部落の大久保利通が通っていて、暗殺された、李王朝家とロスチャイルド、北朝鮮との関係とその変遷。
さらに詳細は
※なお明治維新の詳細は下記に
話はフィクションとしているが、実は、よく調査した歴史的真相がフィクションのオブラートに包んで語られているようだ、と?
引用はじめーーーーー
朝鮮王朝第4代王、名君の誉高い世宗(セジョン)の時代に、対馬征伐が行われた。倭寇の巣窟を壊滅するためだった。応永の外寇といわれる。これに驚いた日本の足利義持(第3代将軍)は朝鮮の真意を知るべく使節を派遣する。
その中に北朝鮮の平安道徳川郡を本貫とする羅世田(ナ・セジョン)がいた。彼は世宗から密命を授けられていた。
その密命とは、日本に帰化して、勢力を拡げ、支配者となって日本を朝鮮の藩屏(防備のための囲い)にせよ、というもの。宋希璟一行に加わった羅世田は、使節から外れて日本に残り、その密命を果たすため努力を重ねる。家康を遡ること8代、松平太郎左衛門親氏が、日本での羅世田の名前である。
最初、上野国新田郡世良田荘の徳川郷を足場にしたが、足利幕府に追われて時宗の遊行僧になり、諸国を放浪した。そして、三河国加茂郡松平郷の郷主・松平太郎左衛門信重の入婿となり、還俗して松平太郎左衛門親氏を名乗る。
それ以後、密命は子孫に受け継がれ、9代目の家康にして、天下人となった。本名は羅家康(ナ・カガン)である。
ーーー引用終わり
そこで、さっそく現地の事情に詳しい星野氏の案内で群馬県太田市世良田にある「徳川発祥の地」を案内してもらった。その村は、弱い立場の朝鮮同和部落だ、と言われてるようだが、将軍徳川家が弱い立場な訳がないが…。
天皇家と一体化したマイノリティ支配層側の日本人に対する逆差別では?
(^^;)
小さな徳をこつこつと重ねることで谷川の水が大海に成るが如き「道の天下」を説く道家の教え。
道徳経:譬道之在天下,猶川谷之於江海
礼記_中庸:小德川流,大德敦化
そういう意味で、1413年、朝鮮半島に德川の地名が誕生
なお、ここでも、驚くべき発見があった。実は、
徳川家康を祀る日光東照宮のお寺の住職と、太田市の東照宮の寺の住職は同じ天海(死んだと思われた明智光秀が出家した僧名)!図らずも、この案内で「日本歴史上最大ミステリー「本能寺の変」の謎、そして南光坊 天海へ」の傍証が得られたのだ!同じ天海と言う名前で何代かにわたって家康の指南役を務めていた可能性がある。
徳川家康が影武者にすり替わったように。

そこで、今度は、徳川家の元々の源流である、北朝鮮の町と呼ばれている
そこでも驚くべき発見が!
それは北朝鮮をリスペクトする人達の一覧リスト(実際は高麗神社へ寄付した人達)を見る事でわかったのだ。
そこに「蓮池薫」の名前を発見したのだ!

(
※一番、左下)
それで、あの北朝鮮拉致事件そのものが、そもそもなかった、と言う事が納得できたのだ!(※さらに別の写真では中谷防衛大臣までもが「北朝鮮、万歳」だったとは!朝鮮天皇ならではの支配がここでもハッキリ(^^;) なお、朝鮮天皇の問題はまた別に (^^;))
引用はじめーーーーーー
蓮池氏は,「金日成政治軍事大学を卒業して,烽火大学に進学した」と横井氏に話したという。
これが真実としたら,蓮池 薫氏はスパイのエリートであったこととなる。横田めぐみさんもスパイに日本語を教えていたそうだし,拉致被害者が拉致実行犯になる可能性を否定することはできない。いままで,マスコミは一部を除き,拉致家族会のいいなり報道に終始していた。
宮崎 学は〔2006年〕10月の一水会フォーラムにて,拉致家族会に対するこのような報道の姿勢を批判している。それと,気になるのが,拉致問題に関しての報道のあり方なんです。これも,悪役と被害者というものをきわめて対照的に描いている。事実,被害者は被害者なんですがね。被害者の立場にあまりにも感情移入しすぎている傾向がある。
ーーーーー引用終わり
他にも芸能人、学者、自衛隊幹部、政治家がおり、また、いたるところに建っている石柱を見るとさらに大物の政治家、そして天皇家の一族も北朝鮮をリスペクトもしくは出自としているのが分かるのだった。
その隣にある、お寺の聖天院も取材してみると、そこでも驚くべき事を発見!
それは奥にある広大な霊園を見ることによってわかった。
また、その霊園の様式も羊が生贄儀式の様に置かれており、まるでユダヤ教の神殿を思わせるものだった。
生贄の羊?
同じように生贄の羊と塔の前に台?
(ひぇー、もう大人のムーの世界へ私も入らざるを得ない?)
よって、その仁王さんが3本指であることの確認も兼ねて、この聖天院を念入りに取材!
そして後で星野氏からは「鬼のあばら骨がまっすぐな事にも注目した方がいい」との指摘もあった。
実は、それも宇宙人の特徴、との事?
聖天院の写真集など
ちなみに聖天院の提灯は浅草寺の雷門のと同じ!
よって徳川家の渋沢栄一は朝鮮の顔
なお、天皇にお墨付きを与える祭祀に欠かせない「あらたえ」を作る忌部族を追っていくと、そこには必ず「聖天寺や聖天院」がある。その祀られている聖天も神戸の六甲山脈の摩耶山行くと、マリア様に変容していることに気づいた。六甲山のあたりもカタカムナも含めた、色々いわれがある所で、同じような場所が、徳島の忌部神社にあった。だが、ここでは触れず、その一部を下記の「阿波忌部を探る」記事に書いてある。他のカタカムナなどの記事は乞うご期待(^^;)
(^^;)
実は徳川家の仕事はタタラの親分、江頭だった?
(※ツイッターに削除されたツイート)
なお現存する遺跡は韮山だが、
※薩摩、長州の田布施だけでなく、肥前の佐賀にも多布施があった!
実は、それが今も起きている!
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追記:
妻の和枝も「佐賀、長崎を調べると、もっと明治維新の謎が解けるのでは?」と言っていた佐賀県の佐賀市多布施町や伊万里市、長崎の長崎歴史博物館、そして特に長崎県の対馬を一人で旅をした。やはり、そうすることで、徳川家の決定的な上記の正体の証拠と明治維新のさらにディープな一面を知る事ができたのだった。
それでは、さっそく核心に迫っていこう!
対馬に着くと、まず驚かされたのは、朝鮮通信使の壁画だった。
そして、次に驚かされたのは、韓国人観光客の多さで、地元の商店街の人に聞くと、日本人しか法律的には日本の土地は直接購入できないのに、いつのまにか韓国人が土地所有者になっており、対馬が実質的に韓国領になりつつある、と言うのだ。
そして対馬観光の実態を見て、合点がいったのだ。
この李王家と天皇家の結婚は日韓併合で中国支配を目論んだ昭和天皇の時代からの陰謀か、と思った。実際、李王家の最後の王様は高宗だが、その王女の李徳恵と1931年(昭和6年)に結婚した宗武志は実は黒田家(黒田日銀総裁や麻生太郎と同じ金融マフィアの黒田官兵衛の子孫?)からの養子で、出身は千葉県の上総久留里藩(現在の千葉県君津市久留里)。その一方、梨本方子は李王朝の王子と結婚させたのだ。
宗武志は李王家の高宗のプリンセスの李徳恵と結婚!
李方子は李王家の高宗第七皇子プリンスの李垠と結婚!
その意味ではセットで昭和天皇は李王朝の取り込み・移行、そして財産の強奪も謀った?
(対馬の厳原町の観光案内所で見せてくれた、よくまとまった資料)
ところが実は、徳川家からそうだった事が、この対馬を支配していた宗家の菩提寺である万松院を訪れてわかったのだ。そこには、徳川累代の位牌があり、徳川と宗家も一体化していたことがわかった。そして、宗氏もキリシタン!
よって、昭和天皇単独で決めた目論見ではなく、徳川家も加担した、徳川天皇部落一体の目論見であったことがわかってきたのだ。
(※上の動画には徳川歴代将軍位牌は写していません)
えっ、宗家もキリシタンだった?
宗家に嫁いだ小西マリアとキリシタン菅原道真を祀る
対馬の厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
19分30秒あたりから
(※後述するが、ロマノフ王朝の子孫も長崎に匿われていた?)
なお、この朝鮮通信使の歴史は下記のブログに詳しい!
(^^;)
なお、このブログを紹介する要点は、朝鮮通信使の始まる前に、「探賊使」と名付けた使節団を派遣し、賊の国である日本の国情を探索し、徳川家康らが再侵略の意図の有無を探ったことだろう。さらに最初の方の3回の使節団も「拉致被害者奪還使節団」とも呼ぶべき朝鮮通信使だった!
(^^;)
下記から引用開始
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[ 6: 徳川家康の外交 ]
大坂 ( 大阪 ) 夏の陣で豊臣政権を倒した徳川家康は慶長 8 年 ( 1603 年 ) に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き名実ともに覇権を握りました。 室町時代末期には、日朝 ・ 日明貿易の実権が各地の大名に移り、彼等に経済力を蓄えさせたと共に室町幕府の存在が薄れる結果になりましたが、その失敗を手本にした徳川幕府は、 地理的に対外貿易に有利な西日本の大名に先んじて、 朝鮮との和平交渉を積極的におこない国交を回復し 貿易を再開する ことにしました。
交渉は徳川家康の委任を受けた対馬藩主の宗義智 ( そう ・ よしとし ) と朝鮮当局の間で進められましたが、徳川幕府が李氏朝鮮との国交を回復し、貿易再開を望む意向があることを伝えましたが交渉は難航しました。そこで日本側が文禄 ・ 慶長の役で捕虜にしていた朝鮮人数百人を返還するなどしたために事態が好転し、日本軍の朝鮮撤兵から 7 年後の慶長 10 年 ( 1605 年 ) に、朝鮮側がその対日不信感をあらわに示すために 探賊使 と名付けた使節団を派遣することに決め、 賊の国である日本の国情を探索し 、再侵略の意図の有無を探ることにしました。
朝鮮の釜山港から対馬に着いた探賊使 一行を対馬藩主自らが案内して上京し、京都伏見城で 二代将軍徳川秀忠に謁見し、隠居して駿府 ( すんぷ、静岡市の古名 ) にいた家康がわざわざ上京してきたので家康とも会いましたが、国交回復に賭けた家康の意欲は並々ならぬものでした。探賊使 一行は朝鮮人捕虜の 男女 1,390 人 を連れて帰国しました。

朝鮮通信使の日本への派遣は江戸時代が最初ではなく、室町時代に 3 回 ( 1428~1443 年 )、豊臣秀吉の時代にも2 回 ( 1590~1596 年 ) おこなわれていましたが、通信という言葉は現代でいうところの情報伝達や、通信連絡の意味ではなく、通信使の場合は 信 に意味があり 「 通信 」 とは 「 よしみ、親しいつきあい 」 を通じる ( 結ぶ ) ことであり、互いに信頼関係を深めあうという意味でした。
引き続き国交回復を求めた日本に対して、朝鮮側が出した条件とは、あくまでも日本側から 講和をお願いする という形式であり、それに応じる形で朝鮮から使節を送るということで李朝の体面を調えようとしました。つまり具体的には、
- 日本の国王に相当する徳川家康から、最初に国書 ( 謝罪と、講和を願う旨の書翰
) を送ること。
- 文禄、慶長の役において朝鮮国 王族の、陵墓を荒らした賊徒を差し出すこと。
でしたが、仲介に立った対馬藩は 「1」 については徳川幕府が謝罪など到底受け入れ難いと判断して幕府には伝えず、宗氏が朝鮮側の意に沿う形で 家康からの国書を偽造 して 朝鮮側に渡し、「2」 については対馬藩の牢屋に捕らえられていた盗賊 2 名を、陵墓荒らしの犯人として朝鮮側に引き渡しました。
ところが朝鮮側も対馬藩による国書偽装工作を見破っていましたがそれを荒立てずに、国交再開の条件が整ったとして、使節の派遣に踏み切りました。しかし第 1 回から第 3 回までの使節派遣を通信使とは呼ばずに、 回答兼刷還使 ( かいとう けん さっかんし )の名称を使い続けましたが、「 回答 」 というのは 日本からの国書に対する朝鮮国王の回答書を届けるという意味であり 、「 刷還 ( さっかん ) 」 とは日本に連行された自国民を尋ね調べて帰還させることで、回答刷還使とはこの 二つの役目を兼ねた使節として派遣されました。
何事にも政治の世界には 「 う ら 」 があるもので、王都 漢城 ( ソウル ) にまで日本の軍勢に攻め込まれ 国土を踏みにじられた李王朝が、撤兵から僅か 7 年しか経たない敵国の日本へ使節派遣に踏み切った ( 1605 年 ) 最大の理由は、 北方からの脅威でした 。 前門の虎、後門の狼 という諺 ( ことわざ )がありますが、 北と南の両方から攻撃される事態を避けるために、南の日本とはなるべく早く講和を結びたかったのでした。
中国東北部 ( 満州 ) にいた女真族が族長 ヌルハチ ( 1559~1628 年 ) のもとで勢力を終結し、中国や朝鮮への圧力を強めていましたが、彼はやがて明朝を倒して 漢民族ではない清朝 ( 1616~1912 年 ) の創始者となり、アイシンギョロ ( 愛新覚羅 ) の姓を名乗りました。
[ 8:朝鮮通信使 ( チョソン ・ トンシンサ ) への接待]
幕府としては朝鮮通信使を招くことによって、諸大名に徳川将軍家の 権威を誇示し 、町人や農民に対しても新しく覇者となった将軍家に対して、 畏敬 ( いけい、心から服し敬う ) の念を起こさせる ことが目的でしたが、それと共に 3 代将軍家光により 1635 年に改定された武家諸法度 ( 寛永令 ) により新設された、大名統制策のひとつである 参勤交代制 と同様に、 沿道の諸大名に財政的支出、負担を強いることにより 、幕府の政治的安定を図るという効果も与えました。
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引用終わり
次に
佐賀では唐津より伊万里が政治的には力がある、との事を対馬の観光案内で聞いたので佐賀の伊万里と対馬の歴史的関係(なぜ対馬は長崎県なのか)を調べた。ただ、不思議な事に、最終的に明治維新で長崎県に帰属したのは、ロシアの通信網のおおもとがあったからだ、と教えてくれた。
(ディープな対馬の歴史を教えてくれた対馬観光マスター!
あれっ、マスター自身がロマノフ王朝の子孫では?)
さて、次は伊万里が唐津より政治的に強かった理由は
@JunjiHattori
伊万里が唐津より政治的にも強かった理由が歴史ボランティアの説明で分かった!
徳川家は鍋島藩に秘密裡に非常に高価な陶器などを製造させてた!
徳川天皇と鍋島藩の雅子妃の秘密裡の原爆開発と地上起爆もこの関係?
ヨーロッパへの貿易拠点!
今も鉄道も松浦党が?
ただ、その海賊の松浦党の親分は倭寇の中国人(越?)のようで、ロジスティックスの要を握っており、本拠地は平戸へ移っていた。よって、伊万里は貿易港の要だった、とも言えるのだ。
なお伊万里が唐津より重要な拠点の本当の理由は
徳川が鍋島藩に命じた秘密の工場で製造し、
世界に輸出し利益を上げ、国内向けには献上品の陶磁器!
まるで大和朝廷が臣下の豪族に与えた「八咫の鏡」のような権威付けの品物!
そして今も変わらない徳川天皇と鍋島藩由来の原爆開発してきたチッソ雅子妃の江頭家の関係!
伊万里市陶器商家資料館にて
佐賀市歴史民俗館を見ると佐賀の鍋島藩の旧古賀銀行頭取の家の前に森永家!
そして森永家はタバコ屋(大麻も?)から始め、呉服屋に(キリシタン島津藩の家紋)!
自分たちの仲間にお金を融通!

また、この近辺には、早稲田大学創設者の大隈重信らの邸宅も!山口県の萩市にある松下村塾があった松本村(萩焼の朝鮮部落)と同じように朝鮮から連れてこられた一族が固まった朝鮮部落だったのか?
by rakusen21
| 2019-05-12 01:29
| この世の闇に巣食う者たち
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