以下、TweetTVの視聴者Puiさんからの投稿です。
ーーーーーーーーーーーーーーーー引用はじめ
畑中理を検索してWikipediaを見ると其処には畑中健二と全く同じ写真が掲載されていた。「何故、同じ写真を使用している?」と不思議に思いながら畑中理こと金策(キム・チェク)を検索してみると、中国の国民服のようなものを着た金策の顔写真が出て来た。そう私はこの顔を記憶していたのだ。畑中理と金策は同一人物であるということは周知の事実である。
金策と畑中健二の顔写真を並べて見た。
「骨格や耳の形、眉毛、目、鼻、口、…限りなく似ている。いや、同一人物では?」衝撃が走った。
暫く時間を置いた後、改めて畑中健二と畑中理を調べて見る事にした。すると、畑中理のWikipediaから顔写真(畑中健二と同じ写真)が削除されていた。
畑中理の詳細な経歴は無く、『日本の軍人』とあるだけ。概要には陸軍中野学校卒業。敗戦後の日本が朝鮮に残した残置諜者とある。任務は敗戦後にソ連が朝鮮に進出し、そこから日本に攻め入り赤化するのを防ぐこと。
また、金日成(キム・イルソン)がソ連を訪問中に、金日成の後妻である金聖愛(キム・ソンエ)と畑中理の間に子供ができ、その子供が金正日(キム・ジョンイル)であるということ。そして、金正日と横田めぐみの間には子供がおり、金正恩(キム・ジョンウン)もその一人であるため、金正恩は畑中理の孫であると記載されている。



短時間の内に写真が削除され、えらく短いWikipediaになってしまっていたのには驚きだった。さて、気を取り直して『宮城事件』の畑中健二を考察してみよう。
畑中健二(1912.3.28-1945.8.15)は、京都府京丹波町で地主の畑中鋭次郎の二男として生まれた。陸軍士官学校を卒業後は陸士教官となり、太平洋戦争には第3軍参謀として出征している。
1935年頃、畑中健二は、井田正孝砲兵少尉、竹下正彦歩兵中尉と共に、東京帝国大学の平泉澄(ひらいずみ きよし・皇国史観の歴史家)の直門として親交を深めていた。平泉澄は近衛文麿と親交が深く、日本を守る国民会議(保守団体)の結成では発起人となっている。
畑中健二は『宮城事件』の首謀者の一人となり、宮城警備に従事していた森赳(もり たけし・近衛第1師団長)を殺害した。
8月15日未明に『宮城事件』が勃発した際、森赳は義弟の白石通教中佐と談話中であったが、井田正孝中佐、畑中健二少佐、窪田兼三少佐らに面会を強要されたという。そして、井田中佐から決起を迫られたが、クーデターへの参加を拒否。
すると、畑中少佐から発砲を受け、航空士官学校の上原重太郎大尉から軍刀で斬りつけられ殺害された。この時、白石中佐も巻き添えで殺害されている。上原重太郎大尉は森赳を殺害後、修武台航空神社(現 入間基地)で自決した。
では、『宮城事件』とは如何なるものだったのか?
『宮城事件』とは、1945年8月14日の深夜から15日未明にかけて、陸軍省の一部の将校と近衛師団参謀が宮城(皇居)で起こしたクーデター未遂事件である。
終戦反対事件、または8・15事件とも言われている。
日本の降伏を阻止しようとした将校たちは、近衛第1師団長の森赳を殺害後、師団長命令を偽造して近衛歩兵第2連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。
だが、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗し、日本降伏阻止を断念。
クーデター首謀者らは自決、他の者は逮捕されるに到る。
これによって8月15日、日本の降伏表明(昭和天皇による玉音放送)が予定通り行われた。
『ポツダム宣言(連合国側からの降伏勧告)』の中には、天皇の戦後の地位に関する文言が含まれていなかった。
しかもソ連が『日ソ中立条約』を破棄し、満州へ侵攻したことにより、日本は『ポツダム宣言』を受諾する他、選択肢が残されていない状況だった。
そのため『国体護持』に強い憂慮を覚えた畑中健二少佐と椎崎二郎中佐、井田正孝中佐が蹶起行動(クーデター)を首謀し、他の青年将校等と共にポツダム宣言の受諾を阻止しようとしたのが理由と言われている。
だが、残された関係者の書簡や話によると、『日本の一番長い日』等の文献とは、かなり内容が異なっているようだ。
つまり、このクーデターを記した小説からして天皇を美化し、責任を回避させるために捏造された工作だということだ。原本を基に制作された映画も同じである。
1945年8月15日の午前5時30分、クーデターを防いだ阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣が皇居内の松林で割腹自決。介錯人も居なかったため、7時10分絶命と記録にある。
遺書には「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ」とあった。森赳近衛第1師団長の殺害を知り、お詫びの気持ちを込めての自害だったとされている。
畑中健二少佐は、8月15日の午前7時、近衛師団の宮城内守衛隊司令室へ行き、自らが殺害した森赳近衛第1師団長に宛てた遺書を、近衛歩兵第2連隊長芳賀豊次郎大佐に提出している。
そこには、「森閣下 霊前ニ 陛下ノ為 誠ニ申シ訳ナキ コトヲ致シマシタ
トウカ オ許シ下サイ アノ世テ必ス 御詫ヒイタシマス」とあった。
畑中健二少佐が殺害した森赳近衛第1師団長の遺体は8月15日の早朝、検視も無いまま司令部近くの窪地で荼毘に伏されている。
そして、8月15日の午前11時過ぎ、二重橋と坂下門の間の芝生の上で畑中健二少佐と椎崎二郎中佐は自決した。
椎崎二郎中佐は自らの軍刀で割腹自決。介錯人として畑中健二少佐が拳銃で椎崎二郎中佐の額を撃ち抜いている。至近距離で額の真ん中を撃ち抜く辺り、戦闘(殺し)のプロ(陸軍中野学校の教育)臭が漂って来る。
畑中健二少佐は椎崎二郎中佐の死を見届けると、森赳近衛第1師団長を撃った拳銃で自らの頭を撃ち抜き自決。
椎崎二郎中佐と共に芝生の上に倒れていた畑中健二少佐の遺体には、額の真ん中に拳銃で撃ち抜かれた跡があったという。
普通、独りで拳銃自殺をする場合、こめかみを撃たないか?
つまり、畑中健二少佐とされている遺体は別人であった可能性が高い。畑中健二少佐が自決したと言うこと自体が嘘なのだ。
畑中健二少佐の遺書には、「松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵の為に自己の魂も国も道も一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する」と書かれてあった。
辞世の句は、「今はただ思い残すことなかりけり 暗雲去りし御世となりなば」である。
既述したように井田正孝らと共に皇国史観に傾倒していたのは事実だろうが、何とも違和感が伴う文言である。
遺言にある「百年後には必ず道と共に再び生きる」とは、生き延びて皇国史観に基づく国をつくり、其処に自らの血統を残して必ずや目的を達成してやると言っているようにも受け取れるのだが。
辞世の句に到っては非常に上っ面な感情のようであり、自らの理念を追求するのはもはや日本国ではないと言っているようにも聞こえる。
『宮城事件』9日後の8月24日の夜には、クーデターを鎮圧した東部軍管区の田中静壱東部軍管区司令官も拳銃で心臓を撃ち抜き自決した。
田中司令官は、戦時中に宮中への空襲を許可したことに責任を感じており、当日24日に発生した陸軍通信学校教官の窪田兼三少佐、及び予科士官学校生徒による『川口放送所(現NHK)占拠事件』を待っての行動であったとされている。
因みに、首謀者の一人であった井田正孝中佐は自決を断念している。戦後は電通に入社して総務部長となり、関連会社電通映画社(現 電通テック)の常務も務めた。1955年には離婚をして岩田に復姓している。戦後も一貫して「本土決戦すべきだった」と主張し続けていた。
また、井田中佐と共に兵力使用計画に関与していた稲葉正夫中佐は戦後、防衛庁戦史編纂官を経て、防衛研究所で研究員を務めている。
『宮城事件』に関与していた将校たちは、敗戦により彼等を裁くべき軍組織が解散させられたため、軍事裁判にかけられることも無く、刑事責任を問われることも無かった。
さて、ここで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を建国した畑中理こと金策(キム・チェク1903.8.14-1951.1.30)を考察してみよう。
金策の本名は金洪啓。貧農の子として生まれ、家族と共に満州の朝鮮民族居住地である間島に移住。
抗日パルチザン活動に身を投じ、1930年に一国一党原則に基づき中国共産党に入党。しかし、日満軍警のパルチザン制圧作戦を逃れてソ連に亡命。
1940年、金日成(キム・イルソン)と合流し、教導旅団第3大隊政治委員となる。そして、1945年、金日成らと共にソ連軍(赤軍)に同行して帰国。
1940年~1945年の間が空白だ。
1946年、北朝鮮労働党第1回党大会において党中央委員会常務委員会委員に選出。翌1947年、北朝鮮人民会議議員及び北朝鮮人民委員会副委員長に選出。1948年、第2回党大会において党常務委員会委員に再選出。
1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されると、副首相兼産業相となった。
そして、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発時は朝鮮人民軍前線司令官に任命され、戦中の1951年に死亡したとされている。
1994年に金日成が死去した際、金庫の中には盟友の金策と撮った写真が1枚だけ残されていたという。
北朝鮮で核の研究・開発を始めたのは大日本帝国である。北朝鮮には石油、ウラン、コバルト、タングステン等の鉱物資源や水が無尽蔵に存在する。
日本の実業家で日本窒素肥料(現チッソ)の創業者である野口遵(のぐち したがう)は、鴨緑江、長津江、赴戦江の三大河川をせき止めて大発電所(100万kwのダム)を建設した。
その計画に協力していたのは、宇垣一成(日本陸軍の軍人)と朝鮮銀行である。
戦後、我々は『北朝鮮による拉致被害事件』という茶番を長期に亘って見せられて来た。冒頭でも少し触れたが、横田めぐみは国家安全保安部局長というポストにあり、金正恩(キム・ジョンウン)の実母である。つまり、金正恩は金策(=畑中理=畑中健二)の孫ということだ。
領土の侵略(資源の確保)と理想的国家の建国。
彼等の戦争は現在もなお続いているのだ。
ただの偶然かも知れないが、金策の8月14日という生年月日からは、降伏宣言を受け入れられなかった思いが伝わって来る。畑中は永遠に8月14日を生き続けようとしたのかもしれない。
…
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用おわり
第6弾皇室ディープに続きます。
by rakusen21
| 2021-12-21 11:43
| 天皇の起源と系譜
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