この栗枝渡(クリシド)八幡神社に来て、初めて安徳天皇は壇ノ浦で入水し崩御されたのではなく、この地まで生き延びて生活されていたことが直観できました。


さらに驚いた事に、天皇の医者&神官を務めた堀川内記の屋敷が「平家屋敷」として、今も残っていて、
その実家に週末、通って入場券のもぎりをしている京美人がいたのです!


彼女も「壇ノ浦でなくなったのは影武者だったのでは?」と言います。
話を聞くうちに、もしかして病気で亡くなった、と言う安徳天皇の話も、実は、この堀川氏が匿って、先生らといっしょに育てたのでは、と思うようになりました。古代から敵の追ってから逃れるためにこの山深い祖谷の地域に逃げ込んできた、ということですが、ここでは徳島では話されない京都弁が残っていて、その言葉を今も使っている、とのことでした。
(もしかして彼女も安徳天皇の子孫では?)
さらにその後、確認をとるため、東祖谷歴史民俗資料館に行って、その確証を得ることができました。

7人もの源氏の追っ手に襲撃を受けたが、逆にやっつけて、その墓が七人塚としてあって、執拗にこんな山奥まで源氏の追手が迫っていたことがわかったり、天皇森、阿佐家(平国盛の家)など、益々、確信に近づいていったのでした。


ここまでくると、その当時の琵琶法師の役割は中世のプロパガンダ、マスコミだったんだな、って言うことがよくわかってきます。
そして、それは今のマスコミも同じような役割を果たしているんだなー、と痛感したのでした。
「もうひとつの平家物語」

東祖谷歴史民俗資料館
【特別展 祖谷平家歴史展】
http://www.miyoshinavi.jp/02miru/detail.php?uid=SS000039
後日談
でも実は高知にその後、移り住んでいたことが証明され、お墓の場所も特定されました。
by rakusen21
| 2014-05-12 07:43
| 天皇の起源と系譜
|
Comments(2)
Commented
by
佐倉
at 2019-08-17 08:31
「後日談
でも実は高知にその後、移り住んでいたことが証明され、お墓の場所も特定されました。」
とありますが、どのように証明されたのでしょうか?
あっ、現在はこの動画は見えなくなっていますね!確か、小松って言う名前で高知のかみ市の山奥に隠れ住んで、そこにお墓を発見した、って話じゃなかったかな?

0